マンスリースペシャル!〜秋津人物伝(その1)〜
| わずか20年足らずの秋津の歴史にも忘れられない人々がいます。想像も及ばないほど、人や自然を深く愛し、生き生きと、この地に生き、さりげなく去って行った。そんな人々を私たちは、忘れる事ができません。「秋津人物伝」は、歳月を隔てた今なお、秋津の記憶に残る人々のシリーズです。 |
| 「ジャンケンおじいちゃん」 | ||
-久我喜代次さん− |
||
私たち秋津の後輩は、久我さんのことを「秋津の父」として、「地域の記憶」として、いつまでも語り継いでいけたらと願っています。 1992年1月2日 久我さんは、家族に見守られながら旅たたれました。 |
||
「ジャンケンおじいちゃん」子ども達に囲まれて |
|
|
|
| 幼かった子ども達も今は中高生。「ジャンケン」の本当の意味を知っているだろう。 | |
| そして、やがて、父や母になり、幼い我が子と「ジャンケン」をする度に胸を振るわすに違いない。 |
|
| *『読売新聞・散歩道(社会面)』1992年1月11日より | |
“じゃんけん”に別れの葬列 年明けの二日、「じゃんけんじいさん」が亡くなった。久我喜代次さん。八十九歳。 十二年前、東京・日本橋の呉服問屋を甥(おい)に任せ、千葉県習志野市の公団海浜秋津団地に引っ越して来た。気ままな隠居生活。毎朝、団地入り口にあるバス停を掃除するのが日課となった。 道をはさんだ向かい側には、小学校がある。登校時間ともなると、子供たちが赤信号を無視して横断歩道を渡ろうとする。久我さんは、それを引き留めるために、子供たちをつかまえては「じゃんけん、ぽん」を始めるようになった。 最初はじゃんけんに引き込むために“ごほうび”として、キャラメルが必要だった。だが、すぐにそれもいらなくなった。子供たちが「おじいちゃん」と駆け寄ってくるようになったからだ。 「ぱー」。下校途中の子供が出した手のひらに、黄色いシミ。「給食はカレーだったろう!」。ぴたりと当てて驚かせたこともある。 八日の「団地葬」には、ランドセルを背負った小学生や制服姿の中学生が別れを告げに集まった。長い列が集会所の外の道路にまで延びた。 「おやじは、お祭り好きの江戸っ子。子供のことは、もっと好きでした」と、長男の博報堂常務、徹さん(五七)は言う。 子供たちは、バス停を通るたびに思い出すに違いない。人なつこい笑顔からこぼれる、あの一言。 「じゃんけん、しよ」
|
|
|
| 秋津小コミュニティルームに今でも飾られる久我さん作成の手拭い | |||
![]() |
手ぬぐいに添えられていた久我さんの「ごあいさつ」
「
顔は、喜怒哀楽を表す人々の看板と思いまして、本年から顔を主題とした飾り手拭いを、私の寿命の終わるまで続けることとしました。ご期待ください。平成四年(一九九二)
元旦 卒寿 喜代次 」
手拭いの折り皺が取れぬうち、久我さんは最期の「ごあいさつ」をされ、ご他界されました。
|
||
人の粋(いき)とは、こういうものでしょうか、久我さん。 |
マンスリースペシャル「秋津人物伝(その1)」 |